野分の賦◆森田必勝◆年 譜◆
◆三島はともかく、森田の精神を後世に向かって恢弘せよ◆
三島由紀夫『命令書』より

その誕生から自決まで◆1945年−1970年
◆1945年(昭和20年)
【7月】 7月25日、四日市市大治田に、森田和吉次男として誕生
◆1948年(昭和23年)3歳
【1月】 父、和吉病死。母、たま病死。
◆1951年(昭和26年)6歳
【4月】 四日市市立河原田小学校へ入学。成績優秀。兄につれられて旅行したり、近所で遊んだりして元気だった。
◆1958年(昭和33年)13歳
【4月】 海星中学へ入学。詩を書いたり、小説を読んだりする。
◆1961年(昭和36年)16歳
【4月】 海星高校へ進学。卓球部、空手部などのサークル活動、二年生から二年間、生徒会長をつとめる。成績はつねに一〜三番。
◆1963年(昭和38年)18歳
【11月】 政治家になる決心をして、河野一郎氏邸(平塚)まで面会を求めに行く。高校時代の森田は、よくヒッチハイクやサイクリングへ出かけ、日本全土を毎年、夏休みに無銭旅行した。
◆1964年(昭和39年)19歳
【3月】 海星高校を優秀な成績で卒業。早大政経学部を受験失敗。4月から名古屋市内の予備校に通い浪人生活。
◆1965年(昭和40年)20歳
【3月】 早大受験に再び失敗。自宅で二浪。大学入学への夢を描きながら憂鬱な受験生活の毎日を送る。
◆1966年(昭和41年)21歳
【3月】 早大教育学部を受験、合格。
【5月】 早大生となる。友人と旅行したり、マージャン、映画などを楽しむかたわら、スト反対運動にも参加。早大教育学部社会教育科一年のクラス委員をつとめる。
【11月】 11月14日、日本学生同盟(日学同)結成大会に協力。早大支部の日本文化研究会に参加。
◆1967年(昭和42年)22歳
【4月】 早大国防部結成に参加。日学同運動に挺身。
【6月】 三島氏の仲介による北恵庭駐屯地への体験入隊に参加。
【11月】 初めての政治論文「核政策をめぐって」を発表。
◆1968年(昭和43年)23歳
【2月】 スキーで骨折、静養先から三島小隊の体験入隊へ参加。
【4月】 早大国防部代表となる。
【6月】 全日本学生国防会議を結成(6月15日)議長に就任。
【8月】 北方領土返還運動を根室で展開。このときの視察団団長。
【11月】 日学同中央執行委員を兼任。『日本及日本人』玄冬号に「北方領土」を発表。
【12月】 全国大会で大会実行委員長。次第に大衆的学生運動より少数精鋭主義に傾く。
◆1969年(昭和44年)24歳
【2月】 日学同を脱退。有志と「祖国防衛隊」を結成し、隊長となる(副隊長小川正洋)。
【7月】 神津島で軍事訓練。
【8月】 四回目の「楯の会」体験入隊から「楯の会」学生長に就任。
【11月】 11月3日、「楯の会」パレード(国立劇場屋上)を指揮。
◆1970年(昭和45年)25歳
【2月】 楯の会第五回目の入隊を引率。
【7月】 小川正洋らと北海道旅行。
【8月】 最後の帰省。日記、アルバムを整理。
【11月】 11月25日、市ヶ谷自衛隊東部方面総監室で「楯の会」隊長三島由紀夫とともに自決。辞世「今日にかけてかねて誓ひし我が胸の思ひを知るは野分のみかは」。満25歳4ヶ月。
四日市に建立された森田必勝顕彰碑
四日市に建立された森田必勝顕彰碑
事件の日、着用した森田の制服
事件の日、着用した森田の制服
 
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