寺山修司小伝 ◎前篇◎ |
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寺山修司は昭和10年(1935)12月10日、青森県弘前市紺屋町に生まれた。
父八郎、母はつ、その長男である。父親は弘前署の警察官だった。役場には誕生をひと月ずらして1月10日届けられた。 父親の転勤にともない、数年のうちに五所川原、浪岡、青森市内、八戸と、県内を転々とした。そのことを踏まえてだろう、自伝的な『誰か故郷を想はざる』のなかに書いている。 「私は一九三五年十二月十日に青森県の北海岸の小駅で生まれた」 戸籍上は翌年の1月10日なので、「この三十日間のアリバイ」について母に聞き糺すと、「おまえは走っている汽車のなかで生まれたから、出生地があいまいなのだ」と、冗談めかして言ったという。 幼い頃の写真が残っているが、その一つでは両親がわきに立ち、曾祖母が生後6ヵ月の子を抱いている。父親は警官らしくズングリむっくりした体つきで、背広にネクタイ、両足をそろえて立ち、左手をポケットに入れている。 母親は和服で太い帯をしめ、両手を前で合わせている。昭和の初めにはやった、まん中でぴったり分ける髪形。赤ん坊は毛糸の帽子と、同じく毛糸のガウンにつつまれ、顔をあお向けにしている。 幸せな若夫婦と曾孫を抱いたおばあさん、いかにもそんな写真だ。うしろに垣のようなものがあって桜の古木が枝をのばしている。家族そろってお宮参りにきたのかもしれない。 昭和11年(1936)は、二・二六事件があった年である。皇道派の青年将校らが決起して首相官邸を襲い、内大臣、蔵相らを殺害。5ヵ月ちかくにわたり東京に戒厳令がしかれた。 プロ野球が始まった年でもある。7チームで日本職業野球連盟を結成。巨人対金鯱戦が最初の試合だった。 阿部定(31歳)が情夫の料理屋主人石田吉蔵(42歳)を絞殺、その局部を切り取って逃走。美人の猟奇的事件として大きな話題となった。 |
幼い頃の写真のべつの一つは、昭和13年(1938)のもの。
母が3歳の長男を両手で抱え上げている。笑い顔なのは父親がカメラをかまえていたのかもしれない。当時、写真機はそうざらにはなかった。警官である父親には、わりと自由になったのではあるまいか。 写真にはすでに、のちの寺山修司の顔立ちがかなり出ている。くりくりした目に、丸い頬、少しおデコ。ヨダレかけをつけ、晴れ着のような着物をつけている。レンズを向けられ、不思議そうに見つめ返している。 昭和13年のこの年、国家総動員法公布、戦時体制がととのえられた。東京で開かれるはずだったオリンピックは中止。満蒙開拓青少年義勇軍が結成された。写真に映っている頭のぐあいが丸っぽいのは、ロール巻きとよばれる「自粛髪形」に変えたものか。 昭和16年(1941)、父八郎が召集を受け、寺山母子は青森市へ転居、長男は聖マリア幼稚園に入園。その幼稚園の教諭をしていた女性が思い出を綴っている。 「修司君はくりくりした目の、人なつっこい笑顔の可愛い子で、上下お揃いのこげ茶色の縞子の背広姿、その短い半ズボン姿が長身の彼によく似合い、都会っ子そのもので、すごく印象に残っております」 女性はその年の春に保育学校を出て教諭になったばかり。印象が強かったのは、寺山修司が途中入園だったせいかもしれない。旧来の子とすぐに仲良くなって、親切で世話好き、「社交性の豊かな活動的な、朗らかな子供」だったそうだ。 この年の12月、真珠湾攻撃によって太平洋戦争が始まった。「そうだその意気」「大政翼賛の歌」が流行。しかし、東北の港町では、まだそれほど戦時色が強まっていなかったのだろう。 聖マリア幼稚園では12月に園児たちがクリスマスの聖劇を演じ、「修司君は羊飼いの役」を立派にはたした。 翌17年3月の卒園式の写真が残されている。全員が筒状に丸めた証書を握ったなかで、最上段の修司君だけが、半分ひろげたかたちで掲げている。 |
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