寺山修司小伝
◎前篇◎
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昭和20年(1945)、硫黄島の日本軍玉砕。米軍、沖縄本島へ上陸、ルソン、セレベス島の戦闘終了を声明。3月、東京大空襲、つづいて全土にひろがる。 青森県では5月に七戸町で大火があり、全焼700戸。7月、青森大空襲。寺山母子は焼け出され、三沢駅前、父方の伯父の営む寺山食堂の2階に間借り。そのため10歳の修司は青森市橋本国民学校より三沢古間木小学校に転校した。
8月15日「終戦の大詔」玉音放送。9月、父八郎がセレベス島でアメーバ赤痢により戦病死した旨の通達がくる。「戦病死」は記録上の名称で、実際は栄養失調、つまりは餓死であって、ズングリむっくりだった体がみるかげもない骸骨状を呈していたと思われる。 母親は三沢に設けられた米軍のベースキャンプで働きはじめた。仕事は雑役婦。
ほぼこのころのことらしいが、聖マリア幼稚園教諭だった女性が偶然の出会いを述べている。三沢まで買い出しに出かけ、駅前で列車を待っていたところ、「先生」と声をかけられた。小学生の修司君であって、あいかわらず愛くるしい笑顔だった。母もいるからといって、少年は駅前食堂へ案内したらしい。
「スラリと背ものび、益々ハンサムになって、お母様となごやかに話し合っている姿、ほんとうに忘れられません」
青森県上北郡連合教師父兄会長名による表彰状が残っている。
古間木小学校六年
寺山修司
右は学術優秀品行方正で他の模範とするに足る、よって茲に之を表彰するというのだ。昭和23年3月25日付。
いわゆる世間の物差しではかるとき、寺山修司の幼年期は不幸なものではなかった。むしろつつましいながらも恵まれた一人だった。父の出征中も生活には困らなかった。 エッセイの一つで空襲を「美しい花火」だったと述べ、はやく大人になって戦争にいきたいと思いつづけていたと書いているが、時代とともに成長した「少国民」の一人、女性教諭の思い出にあるとおり、利発で、よく気のつく、ハンサムな優等生だった。
空襲で家を焼かれたが、それは同世代のおおかたが、多かれ少なかれ同じように受けた災難だった。青森県には父方と母方の親戚縁者がいて何かと助かった。その一人は駅前で食堂をしており、公定とヤミをとわず、食料入手のルートをもっていた。 父は戦地からもどってこなかったが、それもまた、あい似た世代のかなりが同じ体験をした。母親がすぐさま基地に働き口を得たのは、駅前食堂のルートによったのかもしれない。 この点でも幸運の側に入る。勤め先のつてを生かしてだろう、まもなく米軍払い下げの家を手に入れて改築した。
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