寺山修司小伝 ◎前篇◎ |
‐4‐ |
昭和26年(1951)、青森高校に入学。とりわけ短詩型文学に熱中した三年間だった。「翠雨」の俳号をもつ教師をかついで山彦俳句会を設立、「高校生俳句雑誌」と銘打って句誌を発刊。さらに全国の高校生の俳句雑誌「牧羊神」をはじめた。こちらには「十代の俳句研究誌」をうたい、どちらも寺山修司のアイディアだった。 |
「牧羊神」No.2には「PAN宣言」なるものが出され、座談会「PANの杖」、俳壇時評、俳句連作、いずれも寺山修司のペンによる。俳句会定例会記の記録者欄がおおかた「寺山」とあるのは、記録係も兼ねていたのだろう。六人で互選して満票をとった一つ。 少年がナイフをみがく夜の蜘蛛修司 詰襟の高校生が自分たちの雑誌だけでなく、東京の句誌や研究誌にしきりに投稿していたころである。昭和27年(1952)5月、皇居前で警官隊とデモ隊が衝突、「血のメーデー」となった。日航「もく星」号が三原山に激突。ボクシングの白井義男が日本人初のフライ級世界チャンピオンになった。破壊活動防止法(破防法)が公布され、公安調査庁が発足した。 翌28年、NHKがテレビ放送を開始。伊東絹子がミスユニバースに入選して「八頭身」が流行語になった。初のシネマスコープ映画「聖衣」が東京・有楽座で封切られた。 「わたしは、同世代のすべての若者はすべからく一度は家出をすべし、と考えています」(『家出のすすめ』) 寺山修司の場合、母親が先に家出をした。叔父に引き取られた少年は、まず海に出かけた。青森市中から海までは、すぐの距離である。長い桟橋があって、青函連絡船がしずしずと出ていく。 海辺にくるのは、小さな家出というものだった。日曜日には一日中、映画館の暗闇にすわっていた。幸いにも当の映画館を住居にしており、大手を振ってタダ見ができる。この暗闇もまた家出の変種というものだろう。この身は町にいても、しかし世間からは消えている。 「その頃から、私は〈東京〉ということばを聞くと胸が躍るようになった」(『誰か故郷を想はざる』) 心臓がドキドキして、喉がかわき、手が汗ばむ。その手であちこちに「東京」の二文字を落書した。仏壇の裏、学校の机、馬小屋の壁。 東京東京東京東京 東京東京東京東京東京 東京東京東京東京 東京東京東京東京東京 …………………… ………………………… 本州最北端の港町には、しばしばサーカスがやってきた。ジンタの音を高校生はいつまでも耳の底に覚えていた。足芸の女には、白いつま先の上で地球がまわっている。空中ブランコの芸人には、地表がはるか下に沈んでいる。サーカスは気軽に空間をとりかえる。そこのところが家出志望者の気に入った。 のちに寺山修司が、くり返し作品に取りこんだところだろう。赤鼻の道化がバンジョーをかき鳴らしている。オーケストラ・ボックスに楽師たちがすわり、生まじめな顔でもの哀しいメロディを流している。細いロープの上を花かんざしの女がすたすたと歩いていく。 いずれ旗揚げするはずの演劇実験室「天井桟敷」の第一回公演は「青森県のせむし男」だった。つづいては「大山デブコの犯罪」。幼いころのサーカスや見世物体験が色こく影をのこしていた。 「私は学校の広い校庭に立って笑うための練習を一生懸命したものだった」(『首吊人愉快』) 文字にすると、こんなぐあいだったという。 ハハハハハハハハハハハハ ヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒ フフフフフフフフフフフフ ヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘ ホホホホホホホホホホホホ ‐後篇へ続く‐ |
Back |
Top |