寺山修司小伝 ◎前篇◎ |
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昭和23年(1948)、寺山修司、古間木中学に入学。翌年、青森市立野脇中学校に転校。
母方の叔父夫婦に引きとられたためである。叔父は青森の繁華街で映画館「歌舞伎座」を経営していた。母親は福岡県芦屋町の米軍ベースキャンプに勤務。 のちの「寺山修司」はここからはじまる。とともにその文学のはじまりでもあった。「野脇中学校2年9組学級新聞」第2・3合併号は昭和24年9月の発行。そこに寺山修司は詩「野原」、連載小説第一章「夕陽」、短歌一首、俳句を一つをのせている。ガリ版刷りのワラ半紙のほとんどを一人占めにした。 ちなみに、短歌は啄木風の三行わかちで、つぎのとおり。 母想ひ故郷を想ひ 寝ころびて 畳の上にフルサトと書く 「歌舞伎座」は洋画専門の映画館で、モルタル製ながら外観は雄大なつくり、「東洋一」と称していた。正面は昭和初年にはやったアール・デコ様式による三層の装飾をもち、右から左に大きく「歌舞伎座」とあった。ものものしいマークつき。名前のとおり、映画以外にも巡業一座の芝居を上演する。そのための楽屋がそなわっていて、そこが「母にはぐれた少年」の住居になった。 中学のクラスメイトによると、転校生は「背が高く、目の鋭い気障な奴」で、少し不良じみて見え、はじめは虚勢を張って肩をいからせているようでもあった。 すぐにクラスの人気者になった。野球ゲームをはやらせたのは寺山だろうという。鉛筆の六面の一つずつにホームランとかヒットとか三振とかを表示し、スリーアウトごとに交替でころがして勝敗を競う。ファンの選手でオーダーを組んだり、スコアをつけたり、実践さながらのゲームができた。 歌舞伎座に遊びにいくと、広い楽屋の隅にポツンと机と座布団が置かれていた。 「寺山が座布団に座ると辛うじて部屋は体裁を取り戻したような感じで、何ともわびしかった」 叔母が少年のめんどうをみていた。そのころの写真だろう、嫁いでいた娘が子供をつれて帰ってきたらしい。孫をあやす叔母のわきに、イガグリ頭の寺山修司が机に向かっている。声をかけられて顔を上げ、カメラを見つめた。手はしっかり鉛筆を握ったまま。 中学生は忙しかったのだ。学級新聞以外にも文芸部に所属して、自筆回覧雑誌を発行した。絵入りの表紙に大きく「二故郷」のタイトル。小説「故郷」、短歌連作「フルサト」、詩「黒い瞳」「我が家」を収める。タイトルにある「二」は現実の故郷と想像のフルサトの二つにわたる意味のようだ。学級新聞にのせた一首を手引きにして、つづいて六首をつけた。のちに寺山修司か得意とした手法が、中学2年生に、はやくも顔を出している。 |
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