寺山修司小伝 ◎後篇◎ |
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昭和29年(1954)春、早稲田の国文科入学のため上京。ただし、本来の「家出」は四年あまりのちのことだ。 「1958年の夏、私は風呂敷包み一つをもって病院を出た」『消しゴム』 家出には風呂敷包みがつきものだった。ここでは家ではなく病院だったが、そこは難病のネフローゼ患者にとって唯一安住できるところだとすると、退院はつまり強いられた家出である。 風呂敷包みには二、三冊の本と数本の鉛筆、それに着替えが少し入っていた。23歳の青年はドストエフスキーの小説『賭博者』の一場面を、すがるような気持ちで思い返していたらしい。とりわけ婆さんがルーレット盤を見つめながら、しゃがれ声で口にしたセリフである。 「さあ、ゼロだ。ゼロに賭けるんだよ」 永遠の家出少年のように、寺山修司はその後もずっとゼロに賭けつづけた。 ネフローゼという厄介な病をかかえこんだが、それ以外はいたって順調だった。上京してすぐ「チエホフ祭」で「短歌研究」新人賞を受賞した。選者を瞠目させた連作より、ためしに二つ。 向日葵は枯れつつ花を捧げおり父の墓標はわれより低 し ころがりしカンカン帽を追うごとくふるさとの道駆け て帰らむ 連作のタイトルとなった一つ。 莨火を床に踏み消して立ちあがるチエホフ祭の若き俳 優 |
入院中にも小康をみて戯曲を書き、短歌を作っていた。
22歳のとき、中井英夫の尽力で詩を中心にした『われに五月を』が本になった。万一のことを考えてか、著者名に代えて「寺山修司作品集」と添えてあった。つづいて『寺山修司散文詩集』『寺山修司歌集』。
たとえ作者が消えても「寺山修司」をいただいた作品集は残る――あるいは残れかしと、祈りを託したかのようだ。 ぼくが死んでも歌などうたわず いつものようにドアを半分あけといてくれ そこから 青い海が見えるように いつものようにオレンジむいて 海の遠鳴り数えておくれ そこから 青い海が見えるように(『われに五月を』より「海」) |
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