寺山修司小伝
◎後篇◎
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退院後、まずラジオドラマ「ジオノ・飛ばなかった男」を書いた。同じくラジオドラマ「中村一郎」、処女シナリオ「十九歳のブルース」、長篇戯曲「血は立ったまま眠っている」は、浅利慶太の演出で劇団四季が上演。 16ミリ映画「猫学 Catllogy」を監督。篠田正浩の映画「渇いた湖」のシナリオ。テレビドラマ台本「Q」。小説「人間実験室」は退院後2年後の作。
Shuji Terayama
つづいて、とめどなくあふれ出た。ボクシング評論、長篇叙事詩、人形実験劇、放送叙事詩、仮面劇、詩劇、空想旅行記、詩論、テレビドキュメンタリー、テレビドラマ、それに短歌、俳句、戯曲、評論、ルポ、シナリオ、映画論、競馬評論。 そんなさなかに自叙伝『誰か故郷を想はざる』を33歳のときに書いた。自伝抄として「消しゴム」を書いたのが43歳。こちらの最終章には「夢と影、一つの暮方」の章名がついていた。 自叙伝など、しょせんは自分で自分の影を踏む「影踏み」のようなものであって、何度でも書き直しや消し直しができるし、過去の体験にしても、かぎりなく再生をくり返すことができるというのだ。 唯一できないのは、次第に輪郭を失ってゆく〈私〉そのものの規定ではなかろうか。
「自叙伝を書きながら、私は次第に記述者が何者であったかを忘れてしまって、いつのまにか手だけを残して、自分をも消し去ってしまっていたのであった」
たのもしい自己規定というものだ。詩人、俳人、歌人、小説家、劇作家、批評家、演出家、映画監督、競馬評論家、――それぞれに一人の寺山修司がいる。正確には「手だけ残して」自分をも消し去ってしまった男。 戦後民主主義という、いたってとりとめのない精神状況のなかで育った世代であり、いかめしい国家理念や、しかつめらしい市民モラルにはペロリと舌を出さずにいられない。もっともらしい権威や、したり顔した常識には鼻歌をうたう。
ヒーローが好きだったのは、風のようにおどり出て、喝采をあび、また風のようにいなくなる、その生き方によってだろう。勇気や無私や友情といったこととも関係していた。だからこそ彼はくり返しヒーローを語り、栄光を背負って退場する者たちのうしろ姿を、共感をこめて見送った。
それにそこでは現実とフィクションの境界が、すこぶるあいまいなせいもあったと思われる。やにわにあらわれて、一世を風靡し、つかのまの栄光を置き土産に、あわただしく消えていく。ヒーローにおいては日常がおそろしくドラマ性にみちており、現実がしばしば虚構以上に演劇的だ。人生を凝縮したような無限のシナリオが埋まっている。 そこのところが寺山修司には気に入ったにちがいない。
第一作品集『われに五月を』の序詞にうたわれている。

きらめく季節に
たれがあの帆を歌ったか
つかのまの僕に
過ぎてゆく時よ

夏休みよ さようなら
僕の少年よ さようなら

死の前年に新聞に発表した詩は「懐かしのわが家」のタイトルをもち、こんな書き出しだった。

昭和十年十二月十日に
ぼくは不完全な死体として生まれ
何十年かかゝって
完全な死体となるのである

その「完全な死体」のときがきたら、思いあたるだろうというのだ。青森市浦町字橋本にあった家の育ちすぎた桜の木。外に向かってのびすぎていたのが、いまやっと「内部から」育ちはじめる。そんな詩のしめくくり。

子供の頃、ぼくは
汽車の口真似が上手かった
ぼくは
世界の涯てが
自分自身の夢のなかにしかないことを
知っていたのだ
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