追悼文集
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この小論を書き進めてきた結びとして、三島、臼淵、林を含めた戦中派世代は、どのような世代であったのか、またその中で三島はどのような位置を占めるのか、について考えておきたい。
われわれ戦中派世代は、青春の頂点において、「いかに死ぬか」という難問との対決を通してしか、「いかに生きるか」の課題の追求が許されなかった世代である。そしてその試練に、馬鹿正直にとりくんだ世代である。林尹夫の表現によれば、――おれは、よしんば殴られ、蹴とばされることがあっても、精神の王国だけは放すまい。それが今のおれにとり、唯一の修業であり、おれにとって過去と未来に一貫せる生き方を学ばせるものが、そこにあるのだ――と自分を鞭打とうとする愚直な世代である。戦争が終ると、自分を一方的な戦争の被害者に仕立てて戦争と縁を切り、いそいそと古巣に帰ってゆく。そうした保身の術を身につけていない世代である。三島自身、律義で生真面目で、妥協を許せない人であった。
林尹夫は、さらにわれわれ世代の宿命を、高らかに歌いあげる。――いったい恨むといっても、誰を恨むのだ。世界史を恨みとおすためには、我々は死ぬほかない。そしてわれわれは、恨み得ぬ以上、忍耐して生き、そして意味をつくりださねばならないではないか。日本は危機にある。それは言うまでもない。それを克服しうるかどうかは、疑問である。しかしたとえ明日は亡びるにしても、明日の没落の鐘が鳴るまでは、我々は戦わねばならない。――
林はこのような自覚に立ち、若い世代に向って、死にゆく者にはそぐわぬ明るい力強い調子で語りかける。――若きジェネレーション 君たちは あまりにも苦しい運命と 闘わねばならない だが頑張ってくれ 盲目になって 生きること それほど正しいモラルはない 死ではない 生なのだ――
三島は、自分たち世代のあり方を、どう要約しているだろうか。――われわれ世代を、「傷ついた」世代と呼ぶことは、誤りである。虚無のどす黒い膿をしたたらす傷口が精神の上に与へられるためには、もうすこし退屈な時代に生きなければならない。退屈がなければ、心の傷跡は存在しない。戦争は決して、我々に精神の傷を与へはしなかった――という抗議には、苦い皮肉がこめられているように思われる。そこには、戦争時代への追慕の気配がある。終戦の日の焦りが暗示していたように、あの日の衝撃以上のものを、戦争の持つ緊迫した充実感をこえるものを、彼はついにみつけることが出来なかった。すくなくとも文学の仕事の上で、それを造型することは出来なかった。
彼はあの厖大な作品群の中で、何かを究極に肯定したとか、本気で構築したとかという自覚に、行き着くことはなかったのではないか。「仮面の告白」のように、自分というものの本質を作品に定着させることに成功し、あるいは「金閣寺」のように、戦後社会と自分の美の世界とを結びつけえた例外を除いて、彼の文学が読者を感心させ驚かせはするが、感動させることの少ない理由が、そこにあるのではないか。彼が最も実り多きものとして醗酵させ続けた戦中派世代の苦悩は、もともとその文学的才能の質とは異質のものだったのではないか。天賦の力量を見事に開花させた戯曲や短篇の名作は、「檄」の筆者と交差する接点がない。強いて接点を求めようとした「豊饒の海」は、その先に主題の展開のない遺作となった。
大蔵省時代の三島由紀夫
●大蔵省時代(昭和22年12月‐翌年9月22日)の三島由紀夫氏・東京四谷付近の街頭にて●
彼がまだ大蔵省に勤務していた頃、私にむかって、自分は将来とも専門作家にはならないつもりだ、と言い切ったことがある。――なぜならば、現代人にはそれぞれ社会人としての欲求があるから、その意味の社会性を、燃焼しつくす場が必要である。文士になれば、文壇という場で燃焼させるほかないが、文壇がその目的に適した場であるとは到底思えない。自分の社会性を思うように満たせるためには、はるかに広い場が必要なのだ。――こうして彼は文壇を飛び出し、歩幅をひろげ、死の彼方に手がとどくまで、その歩みを止めなかったのであろう。
三島の苦悩は、戦争に死に遅れたという事実から生れた、とはじめに書いた。しかし臼淵や林の若い死を、どのような意味でも羨むことは許されない。生き残ってこそ、すべてがはじまるのであった。戦死という非命にたおれた彼らの不幸を、償いうるものは何もない。三島も、そのことは知り抜いていたにちがいない。そして彼はみずから死を選ぶことによって、戦争に散華した仲間と同じ場所をあたえられることを願ったのであろう。
ここでただ一つ残る事実は、臼淵や林には戦後の生活がなかった、ということである。彼らは戦後の日本を生き、その発展を見とどける資格を奪われたのである。もし彼らが生き残っていたとしたら、どんな戦後生活を持ったであろうか。そんなことをただ空想してみても、おそらく無意味であろう。それよりも彼らの苦悩の中に入って、くり返しその苦悩の底を見きわめなければならないのであろう。
しかし確かなことは、死にゆく者として彼らが残していった戦後日本への願望は、彼ら自身の手によっても、易々とは実らなかったであろう、新生日本とともに歩む彼らの戦後の生活は、けっして平坦なものではなかったであろう、ということである。一つの時代に殉じた世代が、生き残って別の時代を生きるというのは、そういうことなのであり、三島由紀夫を死に至らしめた苦悩もまた、そのことと密着しているように思われてならない。

引用文献■『ユリイカ』昭和51年(1976)10月号
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吉田満・略歴■大正12年(1923)、東京に生れる。昭和18年、東京大学法学部在学中、学徒出陣で海軍に入隊。昭和20年、戦艦『大和』に乗組み、沖縄特攻作戦に参加し、生還。日本銀行在職中、昭和54年9月、肝不全で死去。著書に「戦艦大和ノ最期」「散華の世代から」「提督伊藤整一の生涯」などがある。
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