追悼文集
‐6‐
ここに、敗戦の二週間前、四国沖の上空で敵戦闘機と交戦して散華した海軍の攻撃機搭乗員、林忠尹夫という出陣学徒がいる。彼は京大で西洋史を学び、学者としての将来を嘱望された秀才であった。三島よりは三年年長であるが、頭脳の質において、探求心の強靭さにおいて、二人には共通の要素が少なからず認められるかもしれない。
林は戦死の直前まで、航空隊勤務という殺伐きわまる生活の場で、克明な日記を書き続けたが、戦後「わがいのち月明に燃ゆ」という題で公刊された厖大な量の日記文の中に、「天皇」という二文字を見出すことは困難である。彼の場合、「天皇」に代るものは、「国」であろうか。民族という「共同体」であったろうか。
林はこう書いている。――死地に敢然と突っ込む人は尊いのだ。けだし共同体を掩護するために、我等の祖先と、同時代人と、子孫と、伝統と、未来の掩護のために。それが日本において、時代的に強弱の差こそあれ、共同体の精神的中心となってきたことはいうまでもない。かく考えると、やはり我々は現在の些少事を越えて、軍人として精強となるのがもっとも緊急の要務であることはいうまでもない。――ここで林がとっている姿勢は、三島の初心とそれほどの隔りがあるとは思えない。
しかしほぼ同じ時期に、――日本精神とは、新たなる生命を吹きこまれた道義力ではなく、むしろ慢心した惰性であるとおれは断ずる。これは極端な考え方であろうか――という平静な自問の言葉が記録されているのは、注目に値する。そしてわずか一ヵ月後には一転して、間近な死を予感した烈しさで、軍隊、国、そして「全体」を根本から否定するに至るのである。苛烈な訓練といよいよ絶望に瀕した戦局が、抑えられていた本心を引き出したものと思われる。――おれは軍隊に入って、国のためにという感情をよびさまされたことは、軍人諸君を通じてというかぎり、皆無である。(略)ただ国民が直面する苦悩を反省させられて、おれは軍隊とか、あるいは機構的にみた日本の国のためではなく、日本の人々のために……いな、これも嘘だ。おれが血肉を分けた愛しき人々と、美しい京都のために、闘おうとする感情がおこる。つまらぬ、とも、わけが判らぬ、とも、人は言うがよい。おれはただ、全体のために生きるのではないのだ。全体がその生命を得ぬと、個人の生命が全うできぬがゆえに、おれは生きるのだ。
林はこれほど深く自分を苦悩の中に追いつめながら、なおおのれの姿を見失っていない。――おれは軍隊に奉仕するものではない、おれは現代に生きる苦悩のために働く――と書き、――おれは軍人として有能であるとともに、あくまで林尹夫君でありたい、それがおのれの偽らざる心境である――と書いたとき、彼は自分の苦悩の本質を見据えることによって、ほとんど苦悩を超え得た、といっていいであろう。
三島由紀夫自身、本来は、そのような自己凝視の平静さを身につけた人ではなかったか。もし彼が初期の作品に学徒出身の海軍少尉を登場させたとしたら、林尹夫の持つ一面を、肯定的にその人物の描写に加えたのではないだろうか。戦後の二十五年の時の経過の間に、三島はすべてを知りつくした上で、あえておのれを変身させたのである。
‐7‐
三島の展開する論理をここまでたどってきたが、割腹の決意との間にはなお一つの飛躍が、傍観者の憶測を拒む最も大きな飛躍が、横たわっているのをわれわれは見る。「檄」の結尾の近くにおかれた次の声高な叫びは、論理とは別の世界から響いてくるようである。――共に起つて義のために共に死ぬのだ。日本を日本の真姿に戻してそこで死ぬのだ。生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか。生命以上の価値なくして何の軍隊だ。今こそわれわれは、生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主主義でもない。日本だ。われわれの愛する歴史と伝統の国、日本だ。――
三島が死神を引き寄せようと企図しているのではないかと思わせる前兆が、死の決行の数年前から認められたと評者がこもごも指摘したのは、彼の死の波紋が収まってからである。芥川龍之介の自殺にふれて、――自分は自殺する人間がきらひである。武士の自殺といふものは認めるが、文学者の自殺は認めない。自殺する文学者といふものを、どうも尊敬できない。自殺と芸術とは、病気と医薬のやうな対立的なものなのだ――といった趣旨のことを書いたのは、終戦後十年ほどのまだ早い時期であったが、死の年すなわち昭和45年の初めに行なわれた対談では、――ぼくら小説を書くときはそういう言葉を書くつもりで書いているのだから、そうしたらやらなければならない。そりゃ死んでもやらなければならない。だから、「11月に死ぬぞ」といったら、絶対死ななければならない。政治の言葉が文学の言葉と拮抗するのは、その一点を措いてないのですよ――と、別人のような八方破れの発言をして周囲を驚かせた。
戦後過激な活動に走った多くの学生の中から、一人の自殺者も出ないことは、彼を激怒させた。死ぬ一週間前の対談で、三島は――彼ら、全共闘は革命のためには死なないね。危険に徹しぬいて、最後には生命を投げ出すところまで、どうして思いつかないのか、ぼくはそこが分らない――と、あからさまに彼らの殉死を督促している。
今にして読み返せば、それぞれの時に応じた彼の自然な発言は、疑いもなく一つのことを指向しているように思われるが、それが天衣無縫に語られているだけに、言葉と行動とを峻別したがる文学者独特の習癖や、仮面とポーズに飾られた三島の本業以外の生活振りが、彼と親しく身近につき合っていた友人の眼をさえ、惑わすことになったらしい。まさか本心なら、これほど隙だらけで平然と構えているはずはない。もし異変が起こりうるとしても、その前に何か決定的な予兆があるであろう。まわりがそう考えたとしても無理からぬほど、三島は迷いもペースの変調もなく、一歩一歩計画実行の日に近付いていったものと思われる。
終戦から三年後に書かれた「重傷者の兇器」というエッセーで、三島は自分たち年代の持つ論理をこう概括している。――苦悩は人間を殺すか? 否。思想的煩悶は人間を殺すか? 否。悲哀は人間を殺すか? 否。人間を殺すものは、古今東西唯一つ、「死」があるだけである。かう考へると、人生は簡単明瞭なものになつてしまふ。その簡単明瞭な人生を、私は一生かかつて信じたいのだ。――
賢明な三島は、二十三歳の若さですでに人生を達観し、人を殺すものは、ただ「死」そのものだけだ、と喝破している。そこから出発して、ひろく世界を舞台にした文学的名声と、いかに万事負け嫌いでも充分に満足するに足る世俗的成功と、いく分かの虚名とを彼はかち得た。そしてそのような力を背景に、死の意義づけと苦悩について、さまざまな装いをこらして訴えつづけたが、戦後の日本社会は聴く耳を持たなかった。その作業にも倦み疲れたとき、帰り着く先はやはりあの「死」の原点にほかにはなかった。平凡な、誰と比べても平等な、「死」そのもののほかにはなかったのである。
彼はそのことを知りぬいていたからこそ、死を前にしてあれほど平静だったのであろう。(死にざまがたとえ異様であっても、あの儀式的な緻密さは、狂気にかられた死ではない。)そして死にゆく者の孤独を、心ゆくまで味わったのであろう。
三島とは異なり、臼淵や林のように、天から死をあたえられた青年の場合はどうであろうか。死はどのような苦悩の形をとったであろうか。
臼淵磐は、自分の死についても、天皇についてと同じく、その真意をうかがわせるような言葉を残していない。職業軍人として、それは自然なことであった。ただ彼の家は男の子は彼一人であったから、自分の死後の家族の行末に、細かな心遣いを残しているだけである。寡黙な彼が特攻出撃にあたってわずかにもらしたのは、戦争の空しさについて、人間は確固たる目標をもって生きるべきことについての、断片的な感懐であった。
学徒出身の林尹夫も、死の苦悩についてふれようとしないのは、同様である。ただ日記の調子に、どことなく死を急ぐ風があらわれてくる。あの当時、真面目な平均的な青年にとって、生き残ることは一つの重荷であった。死の十日前、彼は学生らしいさわやかな詠嘆をこめて書いている。――夜 夏は真盛り 昨夜 飛行場で 流星が飛びかうのを見た ああ 秋までに おさらばしたいな――
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