寺山修司小伝 ◎後篇◎ |
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寺山修司が活躍した1960年代から70年代にかけては、わが国バブル経済の第一期にあたる。昭和35年(1960)、自民党党首池田勇人は高らかに「高度成長・所得倍増」政策を発表した。
カラーテレビが放送を開始。未曾有のレジャーブームで、巷にはホンコン・シャツ、また「ムームー」とよばれる女性着が流行した。 昭和39年(1964)、東京オリンピック。東海道新幹線がさっそうと走り出した。トンキン湾事件のあと、アメリカ空軍によるベトナム爆撃は苛烈さを増していく。連日のようにベ平連のデモがあった。ミニ・スカートやパンストが登場。水俣病や阿賀野川水銀中毒など、高度成長のひずみによる公害がふき出した。中教審が「期待される人間像」をまとめた。経済企画庁、国民総生産(GNP)・自由世界第2位と発表。 昭和44年(1969)、東大安田講堂攻防戦。翌年、大阪・千里を舞台にして日本万国博。テーマは「人類の進歩と調和」だった。赤軍派が日航「よど号」をハイジャックした。三島由紀夫が自衛隊東部方面総監部のベランダからクーデターを呼びかけ、自決した。通産相田中角栄が「日本列島改造論」を発表、4年後にロッキード事件発覚、前首相が逮捕された。 |
「時代の子」寺山修司は、そのさなかに生きた。才気の赴くまま変幻自在に跳びはねるようにして、さほど永からぬ人生を駆け抜けた。何ごとであれ平均的なものを優先する社会にあって、たえず規格外のものをよろこび、横紙破りを買って出た。『書を捨てよ、町へ出よう』は横尾忠則の装幀による華やかな時評集であるとともに、若者の合言葉だった。『遊撃とその誇り』『みんなを怒らせろ』『時代の射手』『街に戦場あり』――老人たちのつくった「期待される人間」への歯切れのいい異議申し立て。
いまあらためて少しばかり頁の黄ばんだ本をつらねていくと、一つの時代相がくっきりと浮かび出る。 時代に応じた反時代的ポレミックであって、かたわら寺山修司は「自叙伝らしくなく」の断わりをつけた自叙伝『誰か故郷を想はざる』を書いた。つづいて『時には母のない子のように』『幸福論』。それは『歌集・田園に死す』にうたった次のような歌の散文篇というものだった。 大工町寺町米町仏町老母買ふ町あらずやつばめよ 暗闇のわれに家系を問ふなかれ漬物樽の中の亡霊 ひとに売る自伝を持たぬ男らにおでん屋地獄の鬼火が 燃ゆる 高度成長から日本列島改造と並行して、地方から大都市への人の流れが、みるまに加速していった。大量の故郷離散者、あるいは故郷喪失者の誕生である。 「そのころ、私の母は立川にひとりで住んでいた」 寺山修司は「消しゴム」のなかで母親に託して、1960年代の心象風景をつづっている。彼女はすでに一人の人格であるよりも「狂った望郷の比喩」だったというのだ。 「青森に帰ろう」 と口癖のように言い出す母は、自分が貧しさのために実現できなかった〈家〉を、いまこそ手に入れようとしているらしい。そんな母親を語ったあと、寺山修司はつづけている。 「私は、そのころから〈家出のすすめ〉という一文を書きはじめていた」 |
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