| 三島由紀夫覚え書き |
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| さて、三島は、いつ頃から死を意識したのだろうか。どうも四〇歳前後の時期から、どういう死に方をすべきかを具体敵に考え始めていたようだ。少なくとも「豊饒の海」が完成したら、人生に終止符を打とうと決めていたようである。 三島は、昭和44年(1969)10月21日の国際反戦デーでの自衛隊の治安出動を期待したが、不発に終わり、今後の治安出動の可能性もなくなり、「楯の会」の存在意義も消えかけたことから、同会の解散を考えていた。 |
| そうした折、いわゆる「三島事件」は引き起こされた。「楯の会」会長・三島由紀夫(当時45歳)、同学生長・森田必勝(当時25歳)等五人は、昭和45年(1970)11月25日午前11時5分頃、東京都新宿区所在の陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地内の東部方面総監部において、同総監・益田兼利陸将を人質とし、「自衛隊全員を本部玄関前に集合させ、三島の演説を静聴させること」等の要求を出し、バルコニーで、本部前広場に集まった約一〇〇〇人の自衛隊員を前にして、「われわれ楯の会は、自衛隊によって育てられ、いはば自衛隊はわれわれの父でもあり、兄でもある。その恩義に報いるに、このような忘恩的行為に出たのは何故であるか。……生命以上の価値なくして何の軍隊だ。今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。……」というあの有名な「檄文」を読み上げ、総監室において三島と森田の両名が短刀で切腹した。死に際は、まさしく武士道のそれと似ていた。 |
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