追悼文集
‐2‐
大正14年(1925)1月生れの三島は、終戦の時、満二十歳であった。それより少なくとも二年早く生れていれば、戦争のために散華する可能性を、かなりの確率で期待することが出来た。彼が生涯をかけて取り組もうとした課題の基本にあるものが、戦争に死に遅れた℃鮪タに胚胎していることは、彼自身の言葉からも明らかである。出陣する先輩や日本浪漫派の同志たちのある者は、直接彼に後事を託する言葉を残して征ったはずである。後事を託されるということは、戦争の渦中にある青年にとって、およそ敗戦後の復興というような悠長なものにはつながらず、自分もまた本分をつくして祖国に殉ずることだけを純粋に意味していた。「八月十五日前後」という彼の短いエッセーの結びに、次の一節がある。――終戦のとき、妹は友だちと宮城前へ泣きにいつたさうだが、涙は私の心境と遠かつた。新しい、未知の、感覚世界の冒険を思つて、私の心はあせつていた。――ようやく成年に達したばかりの若者が、平和の到来を前にして、なぜ焦る必要があったのか。戦争という異常な時代のかけがえのない生甲斐が、空しく過ぎてしまったことへの悔恨。これから訪れる新しい時代が、表面の晴れやかさにもかかわらず不毛に終るであろうという予感。早くもそうした重苦しいものが、彼の焦燥感の底にひそんでいたのかも知れない。
しかし終戦からしばらくの期間、つまり彼が文壇に出る前後までの時代は、まだ救いがあった。後年になって彼は、――当時は何だか居心地が悪かつたが、今となつては、あの爆発的な、難解晦渋な文学の隆盛時代がなつかしい。(略)今日のやうな恐るべき俗化の時代は、まだその頃は少しも予感されなかつた。――と述懐している。
‐3‐
戦後日本の経済復興は軌道に乗り、やがてそれが予想を越える実績を達成して世界を驚かせるのと平行して、国民の浪費への欲求、企業家の事業拡大の野望は、とどまるところを知らない状況となった。これにジャーナリズムの目ざましい発達が加わり、文化面や社会活動のあらゆる分野が未曾有の状況を呈する中で、三島の文業も、行くとして可ならざるはなき成果を収めることが出来た。これはその恵まれた資質、類い稀な勤勉さからすれば当然の結果といえるが、時代が彼の最も好まない方向に傾けば傾くほど、マスコミが歓呼して三島の仕事を讃えたのは、悲劇というほかはない。
死の二ヵ月前に行なわれたために、多くの示唆に富むことで知られる武田泰淳との対談「文学は空虚か」の中で、三島はこうまで言い切っている。――僕はいつも思うのは、自分がほんとに恥ずかしいことだと思うのは、自分は戦後の社会を否定してきた。否定して本を書いてきて、お金をもらって暮らしてきたということは、もうほんとうに僕のギルティ・コンシャス(罪の自覚、筆者註)だな。――
さすがの武田泰淳も、――いや、それだけは言っちゃいけないよ。あんたがそんなことを言ったらガタガタになっちゃう――と、たしなめるほかない様子だったが、三島はさらに、――でもこのごろは言うことにしちゃったわけだ。おれはいままでそういうこと言わなかった――と追い打ちをかけている。
自分は戦後の社会を否定してきた、という立場は、具体的にはどういう主張を含むのだろうか。戦後という時代がいかに空しいかについて、彼がもらした寸言隻句をあげていけば、際限がない。――戦後世界は、本当に信じられない。自分は多くの人に裏切られた。もはや、大衆社会のぬるま湯になんか、つかっていられない。戦後日本、こんなに空に近いものはない。しかし僕は信仰者じゃないから、空を支える情熱なんかない。――
自決に先立って自衛隊員に提示された「檄文」は、三島らしからぬ悪文として批判を受けたものだが、その冒頭近くに次のような激越な表現がある。――われわれは戦後の日本が経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失ひ、本を正さずにして末に走り、その場しのぎと偽善に陥り、自ら魂の空白状態へ落ち込んでゆくのを見た。政治は矛盾の糊塗、自己の保身、権力慾、偽善にのみささげられ、国家百年の大計は外国に委ね、敗戦の汚辱は払拭されずにただごまかされ、日本人自ら日本の歴史と伝統を潰してゆくのを、歯噛みをしながら見てゐなければならなかつた。――
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