野村秋介覚え書き
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その野村が、民族派活動家たちに懇願されて、『風の会』を結成し、参議院比例区選挙に打って出たのは、平成4年(1992)7月。
風の会
風の会
結果は惨敗だったが、この選挙期間中にイラストレーターの山藤章二氏が、『週刊朝日』連載の『ブラックアングル』欄で「風の会」を「虱の会」と揶揄したことから、野村が抗議。山藤氏はただちに謝罪し、『週刊朝日』も「選挙期間中に公党中傷につながる表現をしたのは不適当」と、編集長名で「お詫び」を掲載したが、「問題は朝日新聞社全体の報道姿勢にある」と主張する野村は、その後も話し合いを要求。平成5年10月20日のこの日に、中江社長の謝罪によって「最終決着」が図られることになっていたのである。
野村は、「完全に納得はしてはいないが、朝日の機構の中に誠意を感じる。それは日本人として諒とします」と穏やかに答えて、陳謝を受け入れた。そして、「全日空ホテルでまもなく始まる風の会のシンポジウムで、この結果(つまり朝日側の全面陳謝)を報告してほしい」という野村の意向を受けて、橘出版局長ら朝日の二人と野村の配下の一人が、赤坂の全日空ホテルへと向かった。
野村はその後も中江社長らに対して、戦後民主主義や国家、天皇制などに関する持論を披瀝していたが、やがて朝日側の一人が懇談を打ち切るような発言をした途端、急に険しい表情になって、「僕が今日ここに来たのは、それほど甘いことで来たんじゃないですよ」と言い放った。
そして、腰のあたりから二丁の拳銃を取り出すと、「口舌の徒が何をいっても誰の耳にも入らないが、命を懸けた言葉は通じるんです。私は皆に『朝日と刺し違える覚悟で闘う』と公約した。その朝日は、私に誠意を見せて下さった。次は私の番だ節義を通すというのはどういうことか、見ていて下さい」などと語りながら部屋の隅まで行き、皇居に向かって、「スメラミコト、イヤサカ(天皇弥栄)」と三回唱えた後、座り込んでみずからの両脇腹に三発の銃弾を打ち込んだ。
こうして野村は、「左翼偏向報道で日本を悪化させたA級戦犯」として攻撃し続けてきた朝日新聞の首脳の前で、「まるで映画の一シーン」(朝日の幹部の談)のような自決を演じきった。
この日はちょうど、神風特攻隊が初めて結成された日にあたっていた。野村は、風の会の主催するシンポジウムや、最後の自著『さらば群青』の発売日、それに人生の最期をも、すべてこの日に符号させていたのである。「私の戦いの人生もこのへんが潮時だろう」と遺書にしたためていた野村は、生前に建立した墓石に、「俺に是非を説くな激しき雪が好き」と刻んでいた。

自決後、野村秋介事務所(大悲会等)が中心となって毎年「群青忌」(追悼集会)を開催し、故野村秋介を偲んでいる。
群青忌
引用文献■若一光司『自殺者 現代日本の118人』幻冬舎アウトロー文庫
構成■サン企画
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