| 野村秋介覚え書き |
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| 昭和10年(1935)2月14日に町工場の経営者の子として東京で生まれた野村は、十代のころから伝説の侠客「モロッコの辰ちゃん」の下で活動。昭和32年(1957)に横浜で抗争事件を起こして網走刑務所に服役中、右翼思想家・三上卓の門下生と出会い、決定的な影響を受けた。『憂国道志会』の結成から二年後の38年(1963)夏、拳銃を手に河野一郎建設相の私邸に押し入った野村は、「悪徳政治家の河野と腐敗した自民党に反省を促す」として、放火によりこれを全焼させた。 この事件で十二年間服役した野村は、出所してまもない52年(1977)に、故三島由紀夫が結成した「盾の会」の三人と経団連本部を襲撃、人質を取って立てこもった。右翼を自認していた土光敏夫経団連会長は、「襲われた理由がわからん」と口走ったが、野村は当事件の裁判の中で、「『ヤルタ・ポツダム体制』と表裏一体をなす『戦後体制』の所在を全国民の前に晒け出し、我々の愛する日本の『敵』が何であるかを明らかにする」と述べ、体制の擁護者に成り下がった金権右翼を徹底批判。反体制の立場から「新しい民族主義」を掲げる「新右翼」の台頭を、鮮烈にアピールした。 |
| 再び六年間の刑務所暮らしを経て58年(1983)出所した野村は、新右翼の指導的存在として多大な影響力を持つようになる。統一戦線義勇軍や日本民族義勇軍、一水会など、過激な新右翼集団の背後には常に、野村の存在が見え隠れしていた。また、全身をイタリアの高級ブランド「ベルサーチ」で装った野村は、マスコミにも頻繁に登場し、激越な論調とダンディーぶりで名を売る一方、執筆や映画製作にも情熱を傾注。連合赤軍事件で死刑を宣告された新左翼活動家たちを「『赤い日教組』の犠牲者」として擁護するなど、既成右翼の枠を超えた言論活動を展開した。 |
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