◆三島事件とは◆
三島事件を知らぬ若きサムライのために
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昭和45年(1970)11月25日の「三島事件」は、日本の右翼史上に未だかつてない驚愕と戦慄の惨劇であった。
三島由紀夫割腹自決の報を伝える当時の新聞
●後に『三島事件』と呼称された三島由紀夫氏・割腹自決の報を伝える当時‐昭和45年11月25日‐の新聞●
右翼の壮士や軍人が割腹自決をはかるのは珍しいことではないが、ノーベル賞候補にもなっていた日本の代表作家の行動だということで世間一般も度肝をぬかれた。三島が割腹自決のリハーサルをやっていたということは気がつかない人が多かろう。というのは、4年前の昭和41年に「憂国」という題名の映画を製作、脚本、監督、主演でつくっている。ATGが製作しているが、このなかで三島は割腹自殺して相果てる青年将校を演じ、腹切りの型は一分の隙もなくやりこなした。これは自衛隊で割腹をしたとき、見事にその型にのっとったことで世間を驚かせた。その一念は並々ではなかったことがわかる。
三島はその前にも映画に出演している。
大映作品で「からっ風野郎」(脚本・菊島隆三、安藤日出男、監督・増村保造)だが、三島はこの作品に自ら強く出演を望み、裸の皮ジャンをまとって意気がって街をのし歩く、うっ屈したちんぴらヤクザを演じている。若尾文子とからみ、最後はデパート内で銃撃され、目をむいてまっ逆さまに倒れたまんま、エスカレーターで下まで運ばれるという結末で、才人、三島も演技の上では監督からダメの連続で罵詈罵倒されながら、それでも最後までがんばった。できあがった作品は素人の演技の域を出なかったが、双方ともに壮絶な死を遂げるという点で、三島は死に対する独自の境地を持ち、死を美化することが哲学であったのかもしれない。
しかし、三島の死に対して佐藤首相は「気が狂ったとしか思えない、常軌を逸している」中曽根防衛長官は「高名な作家が法秩序を乱して幻想にとりつかれたように人を殺傷し、自衛隊に強要されては迷惑千万、一人の者の思想や異常な行動で国家の秩序を乱すようなことは断じて許しがたい」とコメントした。
これに対して右翼側は三島の行動を評価賛美した。「行動、気魄、信念は見事というほかはない。檄文に一貫している憂国の至情は神の声でもある」「あの義挙により、日本国民の目がさまされ、日本維新運動の突破口が開かれた」そして佐藤、中曽根の発言は許せないとして、「政府自民党は戦後一貫して政権のもとにあぐらをかき党利党略に明け暮れた。三島を死に追い詰めた責任は、政府自民党にほかならない」などと政府を批判した。右翼の連中は、自分たちができなかったことを成し遂げた三島に対する羨望があったのだろう。
国際化の言葉が現在のように流行するはるか以前に、三島は国際的だった。外国のジャーナリズムとつきあい、外人記者クラブによく顔を出した。もう一人、外人記者クラブでのスピーチを得意とする政治家がいた。防衛庁長官中曽根康弘だった。外人記者クラブが中曽根に「楯の会」のことを聞くと、「あれは宝塚歌劇団の男性版にすぎない」と答えた。
事件のあと中曽根は三島との距離を少しでも保つことに必死で、前出のコメントにもあるようにきわめて不快感をあらわしたが、実際には三島とは近い存在にあったと思われる。
「楯の会」は三島が昭和43年(1968)9月につくったもので、全員学生で87人おり、民間防衛組織として7班編成、はでな軍服をまねた制服を着用、三島製「玩具の軍隊」と言われた。三島は45年の暮れ、自衛隊に体験入隊をしている(*2)が、この件で後日、国会で野党が「三島を安易に防衛庁に乱入させたこと。体験入隊で三島ら楯の会を特別に優遇し、育成したことは中曽根康弘防衛庁長官の責任」と追及したが、結局、中曽根長官は、益田兼利総監の辞表を受理したため、益田は責任をとらされた形で決着がついた。
三島の死に対して、右翼では45年12月11日に第1回「憂国忌」を東京池袋豊島公会堂で開いた。参加者は約5000人。会場は入り切れないほどだった。「憂国忌」はその後毎年11月25日に行われているが、年を経るにつれて次第に尻つぼみになり、10年後の55年には500人そこそこになってしまっている(*3)。「憂国忌」のほかに、元楯の会会員による合同慰霊祭、大東塾の三島祭、日本青年協議会の追悼慰霊祭などがある。
三島事件が右翼運動に与えたもの、それは「新右翼」の登場である。三島はいわゆる右翼ではない。むしろ彼は右翼を好まなかった。その三島が憲法改正を叫び、それによって真の自衛隊が生まれる。現在のままでは自衛隊は永遠にアメリカの傭兵として終わる、と言い残して自刃した。この衝撃は右翼・民族派に「申しわけない」「先を越された」という思いを強く抱かせた。そして新左翼主導の学園闘争のうねりに対抗した民族派学生運動の指導層が立ち上がり、一水会、統一戦線義勇軍、大悲会、義友同志会、有志館、九州雷鳴社などの団体が登場した。

引用文献■庄田周平『昭和右翼史』(株)リッチマインド
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